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個展「蝋燭の木」 ※2011年11月14日(月)から19日(土)まで 、
(ギャラリー福果)
http://www18.ocn.ne.jp/~fukka/

(2011/10/15更新)

KIMURA kunihiko`s Webshop for the picture works
キムラクニヒコの絵画販売(油彩、アクリル、パステル、ペン画、ミクストメディア)  http://kimukuni.cart.fc2.com/

2012年05月10日

【製作途中】クローバーの上のヤモリ

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おそろしく時間がかかっています。
絵の具が乾いて、塗るの繰り返しの作業をしています。
描くスピードは、なるべく速くできるように努力しなくてはなりません。

去年の11月に行った個展では、私が描くべき絵の世界が分かったように感じています。
伝統的な「和」を感じさせる世界を、自分なりに描いてゆきたいと考えています。
できるならば、日本人だけでなく、国境を越えて理解される美しさを描けるように努力したいです。

この絵は、まだ当分、時間がかかりそうです。
同時に、いくつかの絵も描いてみたいと考えています。
posted by piko | 日記

2012年05月03日

横断歩道を渡る

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亀やヤモリと心が通じ合ったと思ったことは、一度もない。
いぜん、水槽のなかで飼っていた亀に、何を話してみても、話が通じていると思ったことはなかった。
亀と友情を通じ合うことは不可能だと思う。
金魚もそうだった。いくら話しかけても、絶対に私の話を聞いていない。
亀やヤモリや金魚と友情を育むことは、困難である。

その点、犬や猫やハムスターとは友情が通うことがある。
彼彼女らは、飼い主の話を理解することもある。
黙って我々の話を聞いて、どんな話についてもただ黙って頷くだけである。

だからこそ、ぼくは亀やヤモリや金魚が善い。
亀やヤモリや金魚とは友情は通い合わないし、そもそも人の話も聞いていない。
だから善いのだ。
目があっても、彼彼女らは何を考えているのか、まったく分からない。
もしかすると、本当に何も考えていないのかもしれない。
このことを考えることすら、無駄な気もする。
だからこそ善いのだ。

彼らは絵になる。彼らは文様のように、環境にとけ込むエッセンスではないだろうか。
posted by piko | 日記

2012年04月26日

毛沢東

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びっくりするくらいに似ていない毛沢東 (The portrait series that is not similar:UNCLE MAO)
posted by piko | 日記

2012年04月25日

ジーザスクライストは、菜食主義者であったか?


はじめに

 親しい友人にベジタリアンがいる。私は菜食の提案自体には抵抗はないものの、その動機で少々の疑問を感じることがある。たとえば、「キリスト教は、菜食を奨励している」という言葉がそのひとつだ。この小論は、「ジーザスクライストは、菜食主義者であったか?」という私の疑念をもとにしている。

 イエスの生涯を読み解くテキストは、福音書であるだろう。イエスの処刑後、30年後に執筆されはじめた。聖書学者では、処刑後の三十年間にも資料があったとする研究もあるが、その資料は現在は発見されていない(Q資料)。イエスの生涯について書かれた記事で、もっとも古いものは、マルコの福音書と考えられている。
 イエスの生涯は、これら福音書を読み解く作業となる。福音書は「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」などがある。


洗礼者ヨハネにみる「毛皮をまとった」質素な暮らし

 キリストの長い歴史において、様々な教派が生まれた。そのなかには、たしかにキリスト教ベジタリアニズムという流れもある。しかしながら、イエス自体は菜食を推奨したのかという原点に立ち返ると、菜食を推奨する記事はみあたらないと思われる。
 私の想像するところでは、キリスト教は砂漠で誕生した宗教であるために、肉食を禁止したならば当時の食料事情は著しく制限されるだろう。当時の質素な生活は、菜食のことではないと思われる。たとえば、サロメの舞踊で有名な洗礼者ヨハネのような姿かもしれない。

 「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物にしていた」(マタイ3-4 新共同訳)

 毛衣、革の帯という言葉の文脈からは、なんらかの動物が屠られていることすらも読む解くことができるだろう。


ヒューマニズムの思想は動物には優しくない

 ところで、イエスの主要な教えのひとつはヒューマニズムであると考えている。「ヒューマニズム」は、今日の社会では肯定的に受け入れられている。この言葉の響きが良く感じるのは、まさに現代社会がヒューマニズムによって道徳が形作られている世界であるからだ。近代社会を成立させる、近代合理主義のエッセンスであるだろう。ヒューマニズムを肯定することは、現代社会を肯定することを意味するだろう。現代社会を肯定することは、いち構成員であることの宣言を意味するだろう。
 ヒューマニズムとは何かと考えれば、人間主義である。心地良い語感をもつために、乱用されるがちなイデオロギーは、翻せば今日的な環境破壊の元凶でもあった。ヒューマニズムによって尊ばれるものは、「人間」である。自然とは動植物のことであるとすれば、動物(自然)対人間の構図を示しているだろう。という意味において、まさしく、厳しい自然のなかで生き抜くために、砂漠の宗教に由来を持つ思想であるだろう。 

 ヒューマニズムを読む解くにあたり、有名な「思い悩むな」の一説を考えてみたい。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタイ6-26 新共同訳)
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ6-31 新共同訳)

 イエスは優しい言葉で慰めている。しかしながら、よくよく読みとけば、はたして鳥は人間より劣っている生き物なのだろうか。この「人間主義」は、環境を根こそぎ破壊し、いくつかの種を絶滅に追いやった人類史を予感させるものである。この点は、デリケートな読解が必要になるだろう。
 聖書に由来する、有名なことわざがいくつかある。たとえば、「豚に真珠」である。

「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(マタイ7-6)

 豚に対してネガティブなのは、古代イスラエルでは豚の食用を禁じていたからである。それは、今日的な意味での動物愛護であるとか、菜食主義、博愛などとは意味合いが違う。当時のイスラエル人から見た異教徒たちが祭儀で用いていいたのは豚であった。異教徒の汚れた動物、それが豚のことであった。または、農作物を荒らす忌々しい生き物のことでもあった。今日も、ユダヤ教徒やイスラエル教徒は豚を食べない。(※1) 動物愛護とは、逆の意味合いであった。
 イエスは「人間」以外の生き物たちに対して、必ずしも優しいとは言いがたい。

 先に述べたとおり、イエスは「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ6-31 新共同訳)と言っている。では、具体的に、イエスはどのようなものを差し出しだろう。

「イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たしにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は群衆に配った。人々は皆、食べて満足した。」(マタイ15-37)
 このように、イエスは動物性の食べ物の否定するどころか、分け与えている。


菜食主義者が超えるべきハードル

 キリスト教は一神教であるものの、神を言葉をつかさどる「預言者」たちは複数いる。どの預言者による言葉を解釈するによって、異なった解釈がうまれ、分派も生じるだろう。旧約・新約聖書を含めた読解次第では、キリスト教から菜食主義の教えを導き出すことも可能かもしれない。
 膨大な量の聖書には、記事と記事には矛盾が生じていることがある。したがって、読解の仕方には正解はないだろう。ただし、重要なことは、読み解くことだと思う。
 生命保険の契約書ではないが、書いてあるか書いてないかの違いは大きい。幾人かの菜食主義たちが「イエスは菜食を推奨した」と語るには、いくつかの超えるべきハードルが存在すると感じられる。それを裏付ける出典がない場合、菜食主義をうらづける動機自体がゆらいでしまう危険性があるだろう。その者のアイデンティティが揺らぐ不安要素でもあるだろう。


参考文献
『新共同訳 新約聖書』/財団法人日本聖書協会/1994
(※1)『聖書辞典』/株式会社新教出版社/1968, 1984


posted by piko | 日記

2012年04月24日

家具としての絵画

 グラフィックデザインなどの業種では、デジタルを駆使した作品を主流でありましょう。
 しかしながら絵画などのアナログな分野も、お仕事の開拓は充分に可能だと私は感じています。

 個展を行うことは、空間をデザインする試みに他ならないと思います。「部屋づくり」とも言えるかもしれません。「和風」という切口であったなら、DM発想をする対象は、和に関連するコミュニティの人たちや関連する企業に送ることでしょう。この作業や試みは、企画自体を更に洗練してゆくことにもなりましょう。そして、ギャラリーの空間も洗練されてゆくでしょう。もちろん絵に関心ある方は、どなたでも歓迎されます。同時に、企画する立場の人は、対象とする方をあらかじめ想定しているものなのかもしれません。

 絵画製作において、色彩や構図が存在するように、ギャラリー自体にも色彩や構図が存在します。絵画を飾ることは、壁や家具とのコラボレーションのことでもありましょう。したがって、絵画製作はキャンバスの上に「絵を描く」だけで終始しません。環境を配慮し、飾られた後のことを考え、作戦をたてる必要があります

 現代音楽の世界には、環境音楽のアイデアとして「家具としての音楽」という言葉があります。エリック・サティからはじまりブライアン・イーノによって完成されたアイデアは、「聴くことも、無視することもできる音楽」と私は理解しています。この「家具としての音楽」のアイデアに、インスパイアされて私は絵画製作に熱中しています。絵画も、家具でありえます。家具としての絵画に求められることは、善き脇役としての立ち回りでありましょう。そこが美術館でない限り、絵画はお部屋の主役ではありません。主役は、お部屋を利用する人だと思います。美術的な価値を有しつつも、観ることも、無視することも可能な絵画製作をめざしています。
 私が最近製作した多くの絵画には、上下がありません。環境的絵画または「家具としての絵画」としての具体的なアイデアを、今後より具現化し深めてゆきたいと考えています。

例)縦横がない絵画
http://kimukuni.seesaa.net/article/263259501.html
http://kimukuni.seesaa.net/article/259550633.html

例)環境音楽と環境的なグラフィック作品
http://kimukuni.seesaa.net/article/262173423.html
posted by piko | 日記

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